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概要

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2017 spring vol.29   14く。当時、岡橋家と谷家では資産額が10対1位だったと聞く。曾祖父は、岡橋家に少しでも近づきたいという気持ちで山林の集積をした。私の曾祖父の世代から岡橋家は、当家の道しるべであり、色々な意味で目標だったのだ。 吉野には規模の大きな林業家が複数ある。私見だが、岡橋家と谷家は、管理する山守制度の制度設計も、共通点が多い。各地に山守が存在し、それを束ねる「しゅっと」という立場の山守の頭領的存在がいた。その「しゅっと」が大林業家の林業を取り仕切り、各山守は中小企業の社長のように、比較的森とともに生きる岡橋家は谷家の道しるべ 我々が林業に挑戦するに当たって欠かせない恩人として、清光林業株式会社の岡橋清きよち か元 会長、清隆副会長の御兄弟について、あらためて記しておきたい。お二人の存在がなければ、当社の前田君の研修先はなかったし、ユンボを段取り良く購入することも出来なかった。どこにどんな作業道を入れれば良いか分からないため、作業道の開設着手もままならなかっただろう。日頃お世話になっている林業家、松尾光泰さんも岡橋家の山守だ。 岡橋家は私の曾祖母の生家であり、曾祖父が岡橋家の影響を受けて熱心に山林事業を拡大したと聞でみ。皆に迷惑がかかるし、何より恥ずかしい」 その時は、自分が後に山仕事をするなど夢にも思ってみなかったので「そらそうやな」と思ったと同時に、さすがに危険な山仕事を自分がしなくて良いのだと安堵もした。それ以来、岡橋さんという名前は、私の意識の中にずっと存在していた。岡橋さんはどうも自分で林業をやっているらしいと。 その後、色々な場で岡橋ご兄弟にお出会いすることはあったが、ご挨拶するくらいで、それだけだった。私が林業家としてのご指導をお願いするために岡橋会長にお会いした時には、干支が一回りしていた。林業に飛び込んだ山主岡橋清元会長 岡橋清元ご兄弟は、私の親と同世代にあたる。幼少期を兵庫県の西宮市で過ごされた岡橋会長は、大学を卒業後、京都大学で林学を学ばれ、岐阜県の林業会社に研修に行かれた。そこでは、林道が高密にはりめぐらされ、機械化された当時としては最先端の近代林業を目の当たりにされた。そして、研修から帰ったらその林道から始村外山林所有者「山主」が、山林所在の住民「山守」に、森林の保護管理を委託した山守制度。その伝統がゆらぐ時代に、次世代山主が新しい「森とともに生きる」を模索します。自由にそれぞれの事業を展開していた。岡橋家と谷家の林業経営は、このような山守制度に守られてきたのであり、林業経営はあくまで山守が主体に動くものであった。山主が林業に直接取り組むことは、客観的にみれば、当たり前の事のように思えるかもしれないが、きちんとした山守の体制下で循環していた吉野林業では、山主の立場で直接に林業経営に踏み込むことは、ほとんどなかった。 私からいうと祖父の時代までは、岡橋家も、谷家も、林業経営は山守制度に完全に依拠していた。岡橋清元、清隆ご兄弟の父上は一生に二回しか山に行かなかったとか、私の祖父は山守さんに背中を押してもらって山に登らせてもらったとか、古き良き頃の話は枚挙にいとまがない。 私が岡橋ご兄弟のことを初めて耳にしたのは、たしか平成10年頃だった。当時はまだ正式に谷家の林業に関わってはいなかったが、付つけ き木(注)か何かの仕事の見学に行った時、当家の山守の方との会話の中にお二人の名前が出てきて、こう言われた。「ボンな。岡橋の社長みたいになったらあかんで。山旦那が山仕事なんかしたらアカン。もし、それで事故でもして、死ん谷 茂則 (谷林業株式会社 取締役)十四代目林業家 ドタバタイノベーション奮闘記(注)付木=その年に収穫する立木を山主と山守で選木すること。高齢の林分の収穫に対しては、お祭りの要素もあり、山主と多くの山守で行い、      付木の後は皆でナオライをして祝った。林家によっては、型付けとも言う